今月読んだ本
今月(2024-01)読んだ本は2冊。
生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる (文春e-book)生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる (文春e-book)
人間が神を確信できず、神の信仰に我が身を捧げられず、神のもとでの幸福を得られないというのが時代的な条件ならば、気晴らしをして終わりなき徒労、テロスなき享楽に興じるというのは、いわば弱い心を慰める唯一の方法でもあるのだ。「狩りは死や悲惨を見ることからわれわれを守ってくれる」(断章一三九)のであり、暇つぶしをするものは「じっとしていることを何より避け」(同前)ている。弱きパスカルにはこのことが分かっていたからこそ、気晴らしに興じる民衆たちは「むなしい」ことはあっても「あやまち」ではない、あるいは「愚か」であるどころか「健全」だと言った。気晴らしという在り方をする心の模様は、弱き心の時代の、必然的な帰結でもあるとパスカルは考えていたのだ。
日本の心は、自然と共に生成する自然の共存在であり続けた。心はいくら二重化しても高度にメタ化しても、自然の反響であって共鳴器であった。万葉歌人たちの心は、ありとあらゆる自然と反響する木霊であり、古今の歌人たちは複雑化した共鳴器に新たなる葛藤を覚えた。
人間は意味なしには生きることはできないが、意味に縛られても生きていけない。この不条理は人類に与えられた課題である。西洋では究極の意味として神が君臨し、近代では理性の王国としてヘーゲルが道筋を与えた。他方で東洋では逆に意味の世界を否定して無垢で無為な自然の桃源郷を求める老荘思想が栄え、禅の思想は超脱を目指す道筋を与えた。究極の意味か究極の無意味、人間はこうした二択の間に彷徨い苦悩する。
AIへの欲望や期待というのはつまるところ、精神を持つことのコストに耐えきれない人間たちの様神のアウトソーシング(外注)なのだ。
中略
私たちは、喜びと悲しみを共に生じさせる、この厄介な心という存在を肯定することができるだろうか。それとも、この心を捨て去って空虚なシステムに身を明け渡し、悲劇もないが退屈な存在へとなり変わろうとするだろうか。本書の冒頭で「心に託された仕事は多すぎる」と書いた。私たちは、いかにして心の過剰な役割をスケールダウンさせるか、という問題に直面している。そうでなければ意識とシステムの共進化的/共犯的な機能委譲は、ますます加速していくだろう。
「怠惰」
ジュニアスは、近所の人たちからきらわれていることを、すこしも知らなかった。依然として彼は、すばらしく幸福だった。彼の生活は、考えることと同じように非現実的で、ロマンティックで、とりとめがなかった。彼は日向にすわって小川に足をぶらさげているだけで満足だった。立派な服はもっていないにしても、すくなくとも立派な服を着て行かなければならないようなところもないわけだった。
「朝めし」
それだけのことなのだ。もちろん私にも、なぜそれが楽しかったのか、理由はわかっている。だが、そこには、思い出すたびにあたたかい思いがこみあげてくるある偉大な美の要素があった。