今月読んだ本
今月(2023-09)読んだ本は8冊。
100分de名著の「ディスタンクシオン」解説本がすごく良かったのでいつか読もうと思っていたら時間が立ってしまった。
もっと早く読めば良いと思うほど良かった。
ある女性は、貧しい暮らしのなかでひとりの男性と結婚して、夫の連れ子を養っていたのだが、夫が刑務所に入ったことをきっかけに、「他人の子どもを育てることに疑問を感じて」ある日とつぜん家を出ていってしまう。そしていくつかの職業を転々としたあと、いまでは公園で暮らしている。
私たちの人生のつながりのもろさ、というものを感じる。いいとか悪いとかということではない。これが私たちの暮らしなのである。
居場所というものについては、さんざん語り尽くされ、言い古されているが、それはやはり何度でも立ち戻って考えてしまうようなものである。居場所が問題になるときは、かならずそれが失われたか、手に入れられないかのどちらかのときで、だから居場所はつに必ず、否定的なかたちでしか存在しない。しかるべき居場所にいるときには、居場所という問題は思い浮かべられさえしない。居場所が問題となるときは、必ず、それが「ない」ときに限られる。
ここでは、好きな異性と結ばれることは、その当人たちにとってだけではなく、世間一般にそれは幸せなことである、という考え方が前提になっている。この考え方、語り方、祝福のやり方は、同時に、好きな異性と結ばれていない人びとは、不幸せであるか、あるいは少なくとも、この二人ほど幸せではない、という意味を、必然的に持ってしまう。
そうすると、ある二人の結婚を祝う、ということそのものが、たとえば単身者や同性愛者たちにとっては、呪いになるのである。
中略
何もしてないのに「かわいい」「かっこいい」「おめでとう」「よかったね」、そして「愛してる」と言われることは、私たちからもっとも遠くにある、そして私たちにとってもっとも大切な、はかない夢であるそしてそれが同時に、ほかの人びとを傷つけてしまうこともある。だから私は、ほんとうにどうしていいかわからない。
これもまた多くのひとが同じことを思っているだろうが、かけがえのない自分とか、そういうきれいごとを聞いたときに反射的に嫌悪感を抱いてしまうのは、そもそも自分自身というものが、ほんとうにくだらない、たいしたことのない、何も特別な価値などないようなものであることを、これまでの人生のなかで嫌というほど思い知っているからかもしれない。
何も特別な価値のない自分というものと、ずっと付き合って生きていかなければならないのである。
エミール・デュルケムは、私たちが「神」だと思っているものは、実は「社会」である、と言った。 祈りが届くかどうかは、「社会」が決める。
「アメリカやカナダのコールセンターはとにかく出ない。ルルル……って音を聞いていちゃダメ。そこで叫ぶ。すると出てくれるから。頑張ってね」
一・五リットルのペットボトルに入ったビールを飲みながら、ビーツのサラダをパンに載せて食べる。 すぐ近くのロシア正教の教会から、鐘の音が流れてくる。 風に揺れるシラカバの音がざわざわと聞こえてくる。町は秋の気配にすっかり包まれていた。