國分功一郎『目的への抵抗』
第一部がアガンベン哲学によるコロナ危機と哲学の役割。第二部がタイトルに近い、不要不急と目的への抵抗について。
第二部のほうが楽しく読めた。
目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書) Kindle版
第一部の質疑応答より
たとえば、「俺たちは国からこれぐらいの扱いは受けるべきだ」とか、そういう信念みたいなもののことを言っています。何か価値が信じられていないと、やはり社会がグダグダになってしまうのではないか。そして一人ひとりの生についても守るべきラインを守れなくなってしまうのではないか。だから価値を主体が求めるかどうかというよりも、何らかの価値を信じることが必要なのだというのが僕からの答えですね。
学者には、学問はやはり学問にすぎないという謙虚な気持ちが必要だと思います。
中略
謙虚な気持ちが欠けていれば、理論を現実で試すようなことが起こりかねない。 僕は学者が社会に対して発言していくことはとても大切だけれども、学問と政治の間に何らかのギャップがあることを学者は常に意識しておくべきだと思っています。
第二部
浪費はどこかで満足に達して止まるという点は極めて重要です。なぜならば、自分たちが奪われている楽しみや豊かさを取り戻すことによってこそ、大量生産・大量消費・大量投棄に基づく消費社会の悪循環に亀裂を入れることができるという視点が得られるからです。ここからは、むしろ贅沢を求めることによってこそ社会は変わるという結論が導かれます。実際にそうだと思います。物をきちんと受け取って楽しむことが全般化すれば、社会は変わります。
目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである
ハンナ・アレント「人間の条件」より
衝撃的なのは、〈いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行うことの絶対にな人間〉という言い回しは、「ヒムラー」や「SS隊員」への言及を取り除いてしまったら、現代ではむしろ肯定的に受け止められる言い回しではないかということです。
人が贅沢をするのは、それがよろこびをもたらすからです。美味しい食事を食べるのは、それが美味しいからです。贅沢は何らかの目的のためになされるのではありません。
目的を立てて贅沢をしようとしたら、それは贅沢ではなくなってしまうでしょう。贅沢はそもそも目的からはみ出るものであり、それが贅沢の定義に他ならないからです。実はアーレントによれば、いま贅沢という例で説明したものこそ、全体主義が絶対に認めないものに他なりません。
社会運動に携わることが結果として何らかの充実感をもたらすことは事実なのです。それはおそらくアーレントの言う通り、自分が自由に行為する場面があったからだろうと思います。
中略
目的合理性だけにとらわれ、遊びを全く失った社会運動のようなものがあったら、それは恐ろしいものではないでしょうか。それはあらゆる手段とあらゆる犠牲を正当化する運動に他なりません。
繰り返し強調しておけば、僕らの生活の中から目的が消え去るということはありえません。したがって、目的合理的に作用する行政管理が消え去ることも絶対にありえません。問題は、あらゆるものが目的合理性に還元されてしまう事態に警戒することです。
中略
目的合理的な活動が社会から絶対になくならない以上、そのような懇願には意義があります。しかし、重要なのは人間の活動には目的に奉仕する以上の要素があり、活動が目的によって駆動されるとしても、その目的を超え出ることを経験できるところに人間の自由があるということです。それは政治においても、食事においても変わりません。目的のために手段や犠牲を正当化するという論理から離れることができる限りで、人間は自由である。