感想_「天気の子」(ネタバレあり)
7月28日にT・ジョイ PRINCE 品川のIMAXで見てきた。
品川のIMAXは初めて行ったが非常に良かった。
大画面局面スクリーン×立体サウンドシステム×プラス料金がかかることからのキッズの少なさ。
特に、「天気の子」のような全年齢見れる映画はキッズの少なさ大事。
結論としては「君の名は。」の正当進化が見れた気がする。
ミッション・イン・ポッシブル「ゴースト・プロトコル」からのミッション・イン・ポッシブル「ローグ・ネイション」のような。
天気の子もミッションインポッシブル要素あった。
「ミッション・イン・ポッシブル」ヘイロージャンプ
「天気の子」ヘイロージャンプ
「ミッション・イン・ポッシブル」バイクチェイス
「天気の子」バイクチェイス
ここまでは冗談。
「天気の子」は最後に東京の街を沈める。帆高(少年)が陽菜(少女)に会うためには必要なことだった。
帆高が陽菜に会うために、雨によって東京が沈められることになった。これが「僕と彼女だけが知っているセカイの秘密」だ。
セカイは執拗なまでに代償を求める。
「魔女の宅急便」でホウキにもう一度乗れるようになったキキがジジの声を聞けなくなるように。
「新世紀エヴァンゲリオン」で綾波レイを救うためにサードインパクトが起きるように。
「君の名は。」で隕石からセカイを守った二人が互いの名前を忘れてしまうように。
しかし、「君の名は。」「天気の子」は前者2つとはバックグラウンドが異なる。
魔法が存在する架空の世界でもなければ、使徒が存在する架空の世界でもない。
ありえないほど精巧に描かれた現実の風景。漫画喫茶があり、バニラで高収入があり、スマートフォンがあるリアルワールドだ。
リアルワールドで帆高はセカイより少女を選ぶ。
二度と晴れることはない東京をバックに。
「世界はどうせもともと狂ってる」という解釈を押し付けて。
この狂ったリアルワールドは僕たちが解釈し直さなければならないのだろう。物語の力を借りて。
価値は誰も教えてくれず、コマーシャルが価値観を騙す。
国家や歴史や宗教は個人の人生を昔のように意味づけることはできず、生きる目的ははっきりと存在しない。
でも、僕たちはイヤフォンをつけてRADWIMPSの曲を流せば、背後にある物語を感じることができる。
それは、この混沌とた世界で位相的に問題なく生きていくために必要な知恵なのだろう。
でも僕たちは物語でセカイを解釈するとき、できすぎた自己満足ストーリーを作って、そこに浸ってしまってはいけない。
できすぎた自己満足ストーリーは障害者スポーツを、身体的なハンデを持ちながらそれでもがんばる、お涙頂戴ストーリーとみなし、
大学生はカンボジアに行って、物質的な豊かさはないが、心理的に豊かだという寝言のようなことを言うようになる。
きっと誰もが「大丈夫になりたい」はずだ。
新海作品は次回このジレンマにどうケリをつけるのだろうか。次が楽しみだ。